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旅の設計図 105.アルザスの旅 (3)古城とコルマール/Trip to Alsace (3)Haut-Koenigsbourg &Colmar- 旅の設計図会
- 1. ⑤6 月 13 日(金・ Vendredi ) アルザスに欧州の中世を訪ねる
今日の予定
朝
食
07:00
Corbeau から Gare Strasbourg Centrale
まで: 10 番線 7:14. 7:17 発、
07:53
08:11
ストラスブール駅
S elestata 駅
Ter
Taxiで Haut-Koenigsbourg
城へ
http://www.haut-koenigsbourg.fr
【開】 09:30 から 18:00 € 7.50
オークニグスブール城見学
後、 Taxi で駅へ戻る
12:12
12:22
Selestat 駅 TER ( - >
Basel)
Colmar 駅
昼
食
Colmar にて
・ウンターリンデン
・旧市街
・プティットヴニーズ
夕
食
フランスは南ドイツから北フランスにかけて勢力を張ったゲルマンの1氏族フランク人に由来する。こ
の氏族の長
カール(シャルマーニュ)がやがてゲルマン諸族を制圧し、カトリックに帰依してローマ教皇により神
聖ローマ帝国
の皇帝の地位を授けられる。そののち帝国は様々に分割されるが、アルザスは長男ロタールの国・ロー
トリンゲンの一部となり、絶えず係争の地となる。欧州の中世を感じるために城をひとつ見ておきたい。
ストラスブールの
周辺では Haut-Koenigsbourg 城が最もよく知られているらしい。
- 3. あれが す だと目指 古城 運転
が す。手 指差
Selestat 駅に着いてから予想してい
た古城行きのバスは土日限定の
サービスであった。駅前に何台
か屯しているバスの運転手に聞
いたが、地元のバスのサービス
はないという。こうなったら Taxi
だが、駅前広場を見わたしたと
ころ予約している客を待ってい
るらしい Taxi が 1 台あるのみ。
タクシーを呼ぶ電話が見あたら
ない、と困って考えあぐねてい
たとき、さっきの Taxi が、どう
やら同じ電車で来るはずだった
お客が来ないらしい。向こうか
ら近づいてきた。本当に幸い
だった。 Taxi で城に向かう。
- 7. Haut-Koenigsbourg 城の由来
オー・ケーニグスブール (Haut-Koenigsbourg 、 Haut =高い、 Koenig =王、 bourg= 城壁 ) 城は 1.5 ヘクタール
にも及ぶその広大さと段状の形をしたバラ色の砂岩の壮大さのために力強い印象を与える。この山の
標高は 755m で、平地に対して直角をなしながら東西に貫いており、この城の記述は 12 世紀に初めて登場
する。この岩の突出部は南北に貫く小麦とワインの街道と東西に貫くのが塩と銀の街道が交差する交易
の盛んな街道の交差点に位置し、 12 世紀から 15 世紀前半にかけて所有者が次から次に代わった。この
城の過去を振り返ってみると 3 つの時期に分けることができる。
(1) 1479 年にティエルシュタイン家 (Tierstein) に領地として与えられたが、時代は戦術として大砲が出現
し、対応するために城の大幅修復が必要になった。まず勾配が急になる位置に敵の大砲が据えら
れるのを防ぐための外壁、砲座、そして分厚い壁の防御塔を建造し、住居を修復し、長方形の窓や出
窓が造った。
(2) 15 世紀に城はオーストリア帝国(ハプスブルグ家)が所有するところになったが、 17 世紀の 30 年戦争
の際、新教徒連合軍のスウェーデン軍の攻撃を
受け、城は略奪され焼け落ちた。その後、約 2
世紀の間、城は放置づ状態におかれた。 1862
年フランス共和国は城跡が比較的良い保存状
態だったため歴史的建造物に指定し、隣接する
森とともにセレスタの町に管理させた。
(3) 1870 年普仏戦争でフランスが敗れると、アル
ザス地方はドイツの統治領に編入され、 1899
年に城はホーレンゾレルンのドイツ皇帝ヴィル
ヘルムⅡ世に渡った。ヴィルヘルムⅡ世は翌
1900 年オー・ケーニグスブール城の修復を、
中世期および城塞の専門家として知られた建
築家ボド・エバルトに委ね、修復とコレクション
の買収は 1918 年まで続いた。 1919 年ドイツが
降伏するとベルサイユ条約によりってフランス
がドイツ皇帝の財産の新しい所有者となり、この城を国の管理下におきました。
建築家エバルトは科学的な見地に基づいた研究を重ね、オー・ケーニグスブール城の修復を見事に成
し
遂げたが、建物の上部、天井などの一部で彼の想像による修復もあり、天井付の巡回路や塔の数の多
さ
などについて疑義を出す人は絶えないといわれる。
(日本語のパンフレットから)
- 10. 外門( Outer Gate) をくぐっ
て登り道を城の内部に入る
と正面に落とし格子があっ
た。さらにくぐって中に入
ると右手に居住域らしいと
ころ(厩舎と客用の住居と
いう)があり、突き当たる
と庭が広がった。
- 27. 6/13 (金) Colmar へ
Selestat から Colmar までは
10分。予定した電車
で Colmar に定刻到着し
た。
北海に注ぐライン川に沿ったアルザス地方は行政上、南北で二つの地域に分
れている。北がフランス語でライン川の下流を意味するバニフン県。南は同
じく上流を意昧するオニフン県。バ・ランの中心がストラスブール、オニフ
ン県の中心がコルマールである。コルマールは、奇跡的に二度の大戦の戦禍
をまぬがれたため、中世からルネッサンスにかけての美しい建物が町中に
残っている。
コルマール・ストラスブール間のライン川に沿って、縦一直線に続く街道は
、ワイン大国のフランスでも屈指のワイン街道である。ボルドーほど生産量
は多くないし、ブルゴーニュほど知名度はない。ただしその美味しさは抜群
で、冷やしていただく緑色のボトルのアルザスほど魚介類にふさわしいワイ
ンはない。しかも連なる村々は珠玉の美 . 、しさ。コルマールは、こうした
アルザスのワイン街道めぐりの出発点でもある。
ストラスブールにプチット・フランスがあるように、コルマールの町の南側
に小ヴェニスを意味するプチット・ヴニーズがある。運河沿いに広がる、目
が覚めるほどきれいな場所だ。運河に架かる橋を渡ると、美しいコルマール
の町からさらに素敵な一画だけを集めたような、コロンバージュ様式の建物
だけが立ち並び、青やピンク、黄色に彩色されたおもちゃのような家が続い
ている。澄んだ水の流れる運河のおかげで、しっとりとした情緒を感じる。
おとぎの国のようだ。
見所はイーゼンハイムの祭壇画のある「ウンターリンデン美術館」、コル
マールの町で一番美しい建物といわれている、段々屋根に手の込んだ飾りが
乗った「メゾン・デ・テット」 , 十七世紀の建物で 1898 年から今日までずっ
とレストランの Maison
Pfilster 。奥にホテルも併設。隣接してワイン取引場だった建物などである。
Colmar は ....(Guidebook から )
ドイツの環境問題改善都市
Freiburg がここにある。
- 28. Colmar 最初から失敗
地図で計測すると駅前からウンターデンリンデン美術館まではどうみても 2km
弱。これなら楽に歩ける、という計画であったが、足が痛いのでバス
で行くことにした。ガイドブックには「駅前からバス1~ 4 番、 O 番
、 A 番が行く」とある。バスに乗る前によく終点を確認すればよかっ
たのに、とりあえず来た 1 番にのったら、線路を跨いで西の方にどん
どん行ってしまうではないか。どうもおかしいと気が付いて途中下車
したが、次の戻りのバスが 1 時間も先、バス停を戻ったら別方向から
バスが来て親切にも少し待ってくれた。駅前に戻るかと聞いたら
「 OK 」という。
駅に着いたので「 U 美術館行き
のバスは何番」と聞いたが返事
の内容が解らない。降りてもう
一度調べようとしたら「これに
乗ってろ」というジェスチュア。
やれやれ助かった。
一難去ってまた一難。
バスの男みたいな女性運転手
がここだというので下車したが
どうにも美術館らしいのが見あ
たらない。歩いている人もなく
そばの学校の校庭で子供が
近寄ってきたのでたずねたら
どうも聾唖児童の施設のよう、
やっと通りすがりの人がきて
教えてもらい、結構歩いて
美術館に到着した。疲れた。
バスが美術館の北側について
この設計図の地図に通りが
載っていなかったのがまず
かった。バスは短に何番線
だけではダメ。
- 30. Musée d'UnterdenLinden
この美術館訪問の目的はドイツ人画家・グリューネヴァル
トが 1512 年から3年かけて制作した祭壇画である。近郊
の Issenheim から移設されたので Issenheim の祭壇画と呼ぶ。
中央に磔されたキリスト、左に祈り嘆く人、右に律法学者
”か“悪い人です と云ってる様だが、とにかく一般のキリス
ト画に比べるとかなり残酷に描かれている。顔は苦痛か苦
悩か解らないがひきつり、手や足の筋肉はブルブル震えて
いるような実に写実的な描写である。
グリューネヴァルトは祭壇画や肖像画、版画の修菜を積み、
コルマールでマイスターの称号を取得したというし、南ドイ
ツのニュルンベルクではドイツ最大の芸術家デューラーの工
房に在籍したというから、その頃アルザスはドイツの統治下
にあったのだろうか。ともかくデューラーらと並んでドイ
ツ・ルネッサンスを代表する画家と評されているが、あまり
詳細はわからないらしい。(解らなくても構わないが)。
十字架に磔されたキリストをこんなにも苦しそうに描くのは
やはりプロテスタントだからであろうか。とにかくこれでも
か、これでもかとキリスト教の絵画で埋めつくされている美
術館だ。
- 38. またまた失敗
コルマールに行きたいと計画した動機は物の
本で見たプティット・ヴニーズ(小ヴェニス
、 Petite Venise) であった。計画ルートではタヌ
ル通りを過ぎたら川沿いに Quai de la Poissonnerie
を西に行けばよかったのだが、タヌル通りに
行く手前で西に行ってしまった。、プティ
ト・ヴニーズに行くためにどこかで左折しよ
うと考えたが、どうも空模様があぶないし、
足も痛むので断念して駅にもどることにした
。
“Petite Venise” 旅名人「フランスの田舎町」から引用
インターネットから訪問
記を読んでみると、ストラ
スブールのイル川の水量
たっぷりな川を見た後では
、小川、船は小舟という感
じ。やはり、水運の量が
違っていたのだろう。どう
も2番煎じの感をまぬがれ
ない。
もし、空がどんより鉛色
でなかったら、足が痛くな
かったら見方が違っていた
だろうか。
小さくコンパクトにまと
まっていて、おとぎの国ら
しさは Colmar の方が強いの
- 42. 6 月 13 日コルマールから早め
に
ストラスブールに戻る
10 番バスでホテルに戻り休息
晴れていたので大聖堂へ
6/11 に到着したときはもう 7 時過ぎで閉まって
いたし、 6/12 は朝の出がけと昼に戻った時に外
側を写真に撮った程度なので、一度夕べのミサ
を感じてみたかった。これが最後で本格的な大
聖堂だった。
- 45. 6.13 午後 5 時すぎ、夕べのミサを聞く。背後に相当大きなオル
ガンがある。コンサートや催し物の年間スケジュールがおいて
あった。
せっかくの訪問なのでコンサートもききたかった。