コミュニケーションの仕事でストーリーテリングは欠かせないスキルだ。人の心を動かし、説得し、奮い立たせる。どれだけ理論を学び、な知識を蓄えても、成功者とそれ以外を分けるのはストーリーテリングの魔術だ。 『復讐する海』からの一文を読んで、あなたは何処にいただろう。突然暗い、荒波の海に囲まれていたはずだ。人肉を喰らう遭難者の表情も見えたかもしれない。想像したディテールは、おそらく文中に含まれていない。ストーリーは文章の中に存在するのではなく、相手の頭の中で完成するものだ。ストーリーは完全な絵ではなく、相手の想像力で完成する線画のような「欠落の芸術」だ。 ストーリーには様々なフレームワークが存在する。しかし、最も基本的な構造は2つの出来事と、その因果関係だ。ストーリーはメッセージをそのまま伝えるのではなく、この因果関係を示唆をすることで、相手に気づきを与える。人は自ら気づいた事を、自分の考えだと思い込んでしまう。 「他人の心に思想を植え付けるには、物語を使え」という格言がある。ストーリーによって気付かされた考えは、ほぼ無条件に受け入れられ、疑われることがない。これがコミュニケーションの仕事にストーリーテリングが欠かせない理由だ。 パーセプションフロー・モデルは、消費者の認識を知覚刺激によって変化させる。知覚刺激とは、物事の因果関係を示唆することで、その理解を要求する情報のパターンだ。示された情報の関係に自ら気づくことで、人はそれを自分の考えだと思い込み、パーセプションの変化が起きる。 優れた広告は、視聴者がメッセージに自ら気づくように書かれたストーリーだ。例えば、洗剤の優れた効果を伝えるために、効果を直接説明しない。終わらない家事に苦悩する忙しい主婦が、その洗剤で洗濯に勝利する姿を描き、効果に気づかせるのだ。 優れたストーリーには、必ず3つの要素が存在する。登場人物が、苦境に直面し、克服を試みる。全ての名作には、誰もが絶望するような苦境を乗り越える主人公の姿が描かれている。苦境が重大であるほど、人はストーリーに魅力を感じるのだ。 だからこそ、私たちはニュースの裏側を憶測する。困難を乗り越えるスポーツ選手に心を奪われる。ドラマチックな歌詞に、経験を重ね合わせる。そして科学にさえ、何らかの意味を見出そうとする。現実はどうあれ、人は物事全てにストーリーを求める。 これは500万年ほど変わらないことだ。初期の人類は互いに狩場や水場を伝えるためにストーリーを使っていた。この地理的情報の共有こそが、人間とネアンダルタール人の明暗を分けたものだとも言われている。あるアメリカの人類学者によりと、世界各地の民話の86%に、生活に必要な地理的情報が含まれていたという。 本来ストーリーは、人間が生き延びるための地理的データベースの役割を担っていた。進化の過程で、ストーリーと空間認識能力に密接な関係が生まれ、空間が表現されている文章は、心的イメージの描写を引き起こしやすくなった。 最近の研究では、ストーリーが単なコミュニケーションの手法ではなく、記憶を構成する情報の単位であることがわかってきた。脳には、今を体験する短期記憶と、想起できる長期記憶が存在する。長期記憶にはエピソード記憶という出来事の因果関係の記憶と、意味記憶という物事の意味の記憶が存在する。エピソード記憶は、脳が連続的な出来事の因果関係を認識することで形成される。そして、意味記憶は複数のエピソード記憶の共通点を認識することで形成される。人はストーリーがなければ記憶を形成し、学習することができないのだ。 人間はパターンを認識することで脳内報酬系が活性化し、快感を感じる。この仕組みがストーリーを求めさせ、人間の自主的な学習を可能にしている。しかし、 この快感は生理欲求を忘れるほど強烈であり、私たちのストーリーに対して無防備にする。人はストーリーを求めるがあまり、事実や根拠を無視し、自分を説得してしまう。月面の地形が人間の顔に見えたり、都市伝説を簡単に信じ込んでしまうのはこのためだ。 最初と最後の文字以外のが入れ替わっても正しく読めてしまう、タイポグリセミアという現象がある。脳はパターンを見つけるために、過去の記憶から情報を補完する。必要な情報が相手の記憶にあれば、ストーリーで気づきを与えることができる。 人が如何に自動的にストーリーを見出してしまうかを理解するために、1940年代にアメリカの心理学者のハイダーとシンメルが行った実験映像を見てもらいたい。実際は幾何学模様が不規則に動いている映像だが、人はその動き方にストーリーを見出してしまう。形を擬人化し、感情移入してしまうのだ。報酬系に縛られる私たちの脳は、ストーリーを自動的に創り出してしまう。 クレショフ効果は、1920年代に旧ソ連の映画作家の実験によって示された、連続する無関係な映像に意味を見出してしまいという現象だ。男性の映像は同じものだが、前の映像によってその解釈が変化する。この現象からは、人の認識がストーリーによって簡単に変えられることがわかる。 ストーリーに引き込まれるもう一つの要因は感情だ。人は強い感情にも無条件に注目する。さらに、感情の高ぶりは長期記憶の耐久性と一定の相関関係がある。ランダムな人物の写真を表示した実験では、強い表情の写真が3倍の確率で記憶されていた。一定の感情の高ぶりは、記憶の耐久性を向上させるが、トラウマ体験は逆に忘却を引き起こす。 解離性健忘と呼ばれるこの症状は、ストレスに満ちた出来事の記憶を排除する脳の防衛機能だ。 しかし、ストーリーからトラウマを経験するリスクはない。人は将来の重大な問題を克服するために、脅威を感じるストーリーを積極的に体験しようとする。私たちが見る夢も、問題を克服するストーリー構造を持った幻覚だ。ストーリーは進化が生み出した、学習のVR体験である。 人類の歴史は、ストーリーテリングの歴史だ。社会を形成し協働するために、その手法やメディアを進化させてきた。 しかし、どんなにメディアが進化しても、大切なのはストーリーであり、優れたストーリーテラーはいつの時代にも必要である。今は誰もが世界中に向けて発信できる手法が揃っている。ストーリーテリングの魔術をマスターした者にとって、この世界は無限の可能性に満ちている。