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放射線の人体への影響
              Effects of Ionizing Radation to Human Body
                                                放射線医学総合研究所    酒井一夫
                                                           Kazuo Sakai


     放射線はどんなに微量であっても有害であると言われることがあるが、ここでは人体へ
の影響が線量や線量率(単位時間あたりに与えられる線量)に大きく依存することにつき
検討を加えたい。


1.   影響の分類
     放射線防護の分野では、放射線の生体への影響を線量との関係の観点から2種類に分類
する。
(1) 確定的影響:細胞が失われることによって起こる影響
     人間の体はさまざまな組織・臓器から構成されている。さらに、それぞれの組織・臓器
は数多くの細胞で構成されている。放射線を受けると組織・臓器を構成している細胞がダ
メージを受け、失われることがあるが、失われる細胞がわずかなうちは周囲の細胞がこれ
を補うので、障害として現れることはない。しかしながら、線量が高くなり、失われた細
胞を補うことができなくなったときに、障害が生じる(図1)。




              図 1:組織の回復力のために「しきい値」が生じる仕組み



     組織の回復能力を越えて障害が現れはじめる線量を「しきい線量」あるいは「しきい値」
と呼ぶ。
(2) 確率的影響:細胞が変異することによって起こる影響(確率的影響)
 遺伝的影響と発がんが確率的影響に分類される。遺伝的影響とは、被ばくした人の生殖
細胞の遺伝子に変化が生じた結果としてその子供にあらわれる影響のことを指す。また、
がんは体を構成する細胞に変異が生じ、本来の秩序を超えて増殖する能力を獲得すること
によって生ずると考えられている。いずれにしても、単一の細胞の変異が遺伝的影響やが
んの発生につながりうるとの観点から、しきい値は無いものと仮定されている。


2.放射線の影響と線量
 確定的影響の中で、胎児期の被ばくによる奇形は感受性が高い(低い線量で起こる)も
のの一つであるが、最も感受性が高い時期におけるしきい値は 100~200 ミリグレイとさ
れている。また、神経細胞が盛んに発達する8週間から 25 週間にかけて精神遅滞が見ら
れることがあるが、そのしきい値は 120~200 ミリグレイとされている。しきい値が 120
~200 ミリグレイということは、これよりも低い線量では精神遅滞は認められないという
ことである。これに対し、1,000 ミリグレイになると、発生確率は約 40%に上昇するとさ
れる。放射線の影響が線量に大きく依存することを示す例と言えよう。
 確率的影響のうち遺伝的影響については、これまで人間の場合に放射線によって生じた
例は認められていない。がんについては、原爆の影響、医療被ばく、放射線作業に伴う職
業被ばくなどについて疫学的な調査研究が進められてきているが、急性被ばくの場合 100
ミリグレイよりも低い線量では統計学的に有意なリスクの増加は認められないというのが
専門家の間でのコンセンサスである。放射線によらないがんの発生率が 4 割に達し、放射
線によるリスクは(あったとしても)統計学的な不確かさの中に埋もれてしまう程度であ
るという言い方もできよう。


3.放射線の影響と線量率
 われわれは宇宙線、大地放射線、空気中のラドン、あるいは食品とともに体内に取り込
まれた放射性物質などから日常的に放射線を受けている。地球上には自然放射線のレベル
が世界平均よりも数倍高い地域が存在し、中国やインドの高自然放射線地域の住民の健康
影響調査が行われてきている。長年にわたって高いレベルの放射線を受け続けた総線量が
100 ミリグレイを超える場合でも、放射線に起因すると考えられる影響は認められていな
い。その他の要因についても考慮する必要はあるが、このことは、同じ線量であっても、
短時間のうちに受けるか、長期間にわたって受けるかによってその影響が大きく異なるこ
と(線量率効果)を示す一例と考えられる。
 また、医療の分野でも同じ線量を何回にも分割して受けた場合には、一挙に受けた場合
に比べてその影響が小さいことが知られている。


4.生体防御機能—線量・線量率効果の背後にある仕組み
 生体には放射線に限らず、さまざまな「ストレス」に対応するための防御機能が備わっ
ている。1) 体内に生じた反応性の高い物質を除去するための「抗酸化機能」、2) DNA の
上に生じた損傷を修復する仕組み、3)DNA 損傷が蓄積した細胞を除去するアポトーシス
と呼ばれる機構、4) がん化した細胞を除去する免疫機能などである。
 このような何重もの防御機能が放射線による障害の発生に抑制的にはたらいており、こ
の能力で対応できなかった部分がリスクの増加につながるとすると、線量が低い場合の障
害の現れ方は、単純に線量に比例したものではないと考えられる(図2左図)。また、
一挙に受けた場合に防御能力を越える損傷を与える線量であっても、何回か(図2中図で
は 4 回)に分けて与えられた場合には、その時点、その時点で対処することができる分だ
けリスクの増加の程度は小さくなる。さらに、長期間にわたる低線量率の場合にも、各時
点で防御能力が機能するためにリスクの増加が一層小さくなることも考えられる(図2右
図)。




              図2:時間的線量配分とリスクの増加



 5.放射線防護と放射線生物作用
 放射線防護の分野では、確定的影響の発生を防止することと確率的影響の発生を容認で
きるレベルまで低減することが目標とされる。この中で確率的影響の発生に関しては、
                                      「そ
の発生にはしきい値はなく、リスクは線量に対して直線的に増加する」との考え方(直線
しきい値なしモデル   Linear No-Threshold Model)が採用されている。これは、放射線
防護あるいは管理の目的で設定されている考え方であり、必ずしも現実の影響を反映した
ものではない。LNT の考え方によれば、どんなに微量の放射線であっても、線量に応じた
リスクの増加があることになるので、微量の放射線によるリスクを多人数に適用すればが
ん死亡数が算定されることになる。チェルノブイリ事故の影響を評価するにあたり、対象
を全世界に拡大して、事故による被ばくに起因する死者が数万人に達するという議論があ
ったが、この一例といえよう。いまだにこのような例が後を絶たないが、国際放射線防護
委員会(ICRP)では 2007 年に発表した勧告の中で、微量の放射線による計算上のリスク
を多人数に適用して、死亡数などを算定することは適切ではないと注意喚起している。


6.まとめ
 放射線の影響が線量と線量率に大きく依存することを理解することが重要である。放射
線との関わりの中では、このことを認識しつつ、放射線を侮らず、一方で怖がりすぎない
姿勢が必要であろう。

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